避けようもない悲劇に見舞われる人類。そんな時に直面すればあなたは何を思いますか?/『もっと』

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Mr.Children

 

 

 

 

 

無慈悲なことながら、生きているとどこかで一定の規模で悲しい出来事は起こってしまうもの。

 

避けようもないものなのだと思います。

 

ただ、そう頭では理解していたとしても、ショッキングな出来事を前に私たちはそんなちんけな達観などは跡形もなく吹き飛ばされます。

 

そんな時に『もっと』を思い出します。

 

 

暖かでやさしい雰囲気を纏う『HOME』の中で、この『もっと』は雰囲気こそは『HOME』に合うものの、伝える内容、その背景が非常に重いもので、少し異質な存在とも形容できます。

 

元々は『IT’S A WONDERFUL WORLD』の頃に作成された曲と明言されており、約5年もの時を経て、世に出た曲でもあります。

 

この『もっと』は2001年9.11、グラウンドゼロを受けて作成された曲です。

 

その時私は非常に幼く、あのショッキングな映像をウルトラマンなどの世界観で見ていたように記憶しています。(この記憶も確かなのかと言われれば怪しいくらい幼かったのです。)

 

その後、グラウンドゼロを受けた変革と変遷とともに育ってきたとはいえ、グラウンドゼロの影が重くのしかかるこの『もっと』をその瞬間を知らない私が解釈できるのかは誠に不安ですが、できる限り解釈していきたいと思います。

 

『もっと』 作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai

 

悲しみの場所に灯された裸電球に似た光

それはほら吹きに毛の生えた にわか詩人の蒼い願い

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

「裸電球に似た光」はそれだけだと意味が取りづらく、追悼の際の蝋燭などを想起してしまいますが、代名詞が来ていますので、「ほら吹きに毛の生えた にわか詩人の蒼い願いを指すものだということはわかります。

 

「にわか詩人」とは誰のことでしょうか。

 

Mr.Children、もっと言えば桜井さんのこと?

 

それとも、様々曲を歌ったであろう、ミュージシャン全員を指すのか。

 

もしくは、その場所に想いを馳せた人々全てを指すのでしょうか。

 

比喩を除いた正確な主語が取りづらいですが、元々詩人ではないものの、ある種「嘘」に近いような蒼い願いが裸電球のように光っている。

 

 それがしっかりとした詩人でなくとも、「嘘」だとしても、確かに光り輝いている。

 

それは直接的には無力なものなのかもしれませんが、その光には間接的にでも意味がある。

 

そう思います。

 

華やぐ季節がそこまで来てるのに

相変わらず心をどこかに置いたまま

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

9.11を超え、晩冬の頃を抜けようとしても、まだグラウンドゼロから立ち直れずにいる。

 

そのショックを引きずっている。

 

まぁ、ある種当然ではあるとは思いますが、なかなかグラウンドゼロの悲しみ、苦しみ、恐怖を払拭できないでいる。

 

暗い目をしたって この星のリズムは

君に笑顔を降らすから きっと きっと きっと

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

悲しい時でも、地球は回っている。

 

その周期というのは今は悲しみに満ちていても、いつかきっと笑える日が来る。

 

無責任のような、前向きな真理なんだと思います。

 

そう確信はなくとも、そうあって欲しいという願いが「きっと」を重ねることで表れていると思います。

 

 

 

ヘッドフォンで塞いだはずの理由のない孤独な叫び

やわな手足をもぎ取られた バッタみたいに踠く思い

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

聞こえないフリをしても、強者が簡単に弱者を虐げ、苦しむ誰かのその叫び声は確かに聞こえる。

 

では、「バッタみたいに踠」いたのは誰なのでしょうか?

 

一つはもちろん、グラウンドゼロによって、苦しめられた人でしょう。

 

多くの人の命が失われた行為は非常に許しがたいものです。

 

ただ、「バッタみたいに踠」いていたのはイスラム圏の国の人もそうだと思います。

 

もちろん、アルカイダやのちのISなどをイスラム教徒の人と同一視するのはいけませんが、欧米諸国の政治的、経済的な介入によって、国体が大きく変容させられたためにイスラム教徒の人たちの中からああいった形での反撃として出てしまった側面は否定できません。

 

繰り返しにはなりますが、テロは断じて許されない行為です。

 

ただ、ああいう結果を招いたのは「ヘッドフォン」をして聞こえないフリをしていた私たちにも原因はある。

 

このようなメッセージが伝わってくる部分です。

 

 

世界は誰にでも門を開いて待ってる

平等の名の下に請求書と一緒に

そんな理不尽もコメディーに見えてくるまで

大きいハート持てるといいな

もっと もっと もっと

もっと もっと もっと

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

民主主義、資本主義のジレンマがこの『もっと』には込められていると考えられます。

 

実際に桜井さんもコメントしていますし。

 

民主主義や資本主義は万能ではない。

 

かといって社会主義や共産主義は手垢が付き過ぎているため、恐らくそこへ逃れることが出来ない。

 

もちろん、平等に「人権」を持った存在として扱われ、個々人の意見が「尊重」される民主主義や成功するチャンスが「平等」に存在する資本主義は素晴らしいものではあります。

 

ただ、幾分公平ではない。

 

公平ではないにもかかわらず、「平等」ではあるから、成功を収めないとそれは「自己責任」だし、権利は与えてもらっている分、諸々の義務は負ったリする。

 

少し、「これってどうなのかな?」と思ってしまうものですが、誰もなかなか本質的に変えようとしない、もしくはシステムが大き過ぎて変えられないと感じているのかも知れないですね。

 

資本主義や民主主義はジレンマも抱えていますが、それが生み出すものというのは人類において非常に大きな意味を持っていると思います。

 

ただ、「もって上手く使えるんじゃないかな?もっといいものに昇華できるじゃないかな?」なんて思ったりもしてしまう人も多いのも事実だと思います。

 

今を生きる私たちがより良いものにしていけるよう、努力していかなければなりませんね。

 

 

夜ごとの花火はもう上がらなくていい

心に消えない光が咲いているから

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

「夜ごとの花火」とは何なのでしょうか?

 

単に花火が暗闇を閃光で強制的に照らすように、暗い雰囲気を無理やりに明るくするような行為、イベントの比喩でしょうか。

 

そうだとすれば、「悲しみの場所に灯された裸電球に似た光」が時を経て、蝋燭から蝋燭に火が移るように、皆の心を優しく照らす光も移っていくことが出来たのでしょうか。

 

どんなに辛いことがあっても、地球は回っていて、いつかきっと笑える日が来る。

 

「この星のリズムは 君に笑顔を降らすから」ということですね。

 

暗い目をしたって この星のリズムは

君に笑顔を降らすから きっと きっと きっと

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

どんな理不尽もコメディーに見えてくるまで

大きいハート持てるといいな

もっと もっと もっと

もっと もっと もっと

作詞 Kazutoshi Sakurai 作曲  Kazutoshi Sakurai
『HOME』より『もっと』

 

避けようのない悲劇は非常に理不尽であることが多いと思います。

 

「どうしてあの人が…」ということも起こってしまうもの。

 

それをコメディーだと思える日が来るのでしょうか。

 

清濁併せ吞むどころの騒ぎではないですが、そんな大きな心を持てた時。

 

何かが変わっていくのかも知れませんね。

 

以上が『もっと』でした。

 

正直、曖昧なところも多く、非常にセンシティブな内容で難しいところも多い印象が強いです。

 

私の理解が全く及んでいない場合も十二分にありますので、「それは違う!」「こうじゃないか?」という解釈があれば教えてくださるとありがたいです。

 

あの日と比べて、現在はより良いものになっているでしょうか。

 

少なくとも、これから先の未来はもっといいものにしていきたいと強く思わせてくれる曲です。

 

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